これが私の生きる道 〜 シグリッド・シャウマン、ヒルダ・フローディン

思いつきで美術館をはじめてみたものの、なかなかたいへんなものです。これほどいろんなことに気を使わないといけないとはおもってもいませんでした。毎日開館したいのは山々なんですが、あいにく灯台のしごともありますもので。といっても来てくれたお客は、もの好きなおじいさん、たったひとりだけなんですけどね ──

Sakari Kiuru / Helsinki City Museum

さて今回で5回目となるこのレポートですが、実はまだ講義の導入部に差しかかったところだったりします。このペースだとどのくらいかかるのでしょうか。果たして目的地にたどり着けるでしょうか。道は迷うためにあるんです、とか言ってみたりして。ちょっぴりテンポアップして『モダン・ウーマン』展の出品者4名を見ていきます。

Sigrid Maria Schauman, 1877-1979

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ロシアのチェグエフ(現在のウクライナ)で、上流階級の家に生まれたシグリッド・シャウマン。幼少期をポーランドで過ごしましたが、1885年に母親を亡くすと、フィンランドへ戻ることになります。1899年に入学したヘルシンキ絵画学校では、ヘレン・シェルフベックに師事しました。初めてアテネウム主催の美術展に出品したのは1901年のことです。

1904年、兄オイゲンがフィンランド総督ニコライ・ボブリコフを暗殺するという事件が起こり、彼女はコペンハーゲンに移住。その後はフィレンツェや、パリのアカデミー・デ・ラ・パレットなどで学び続けます。そして、娘が誕生した直後、夫エドヴァルド・ヴォルフが亡くなり、彼女は美術評論家としても働くようになりました。1945年からはVapaan taidekouluというフリースクールで教鞭をとります。

まるで映画にでもなりそうな波乱万丈な人生ですが、彼女は101歳まで生きました。生誕100周年記念の展覧会は、アモス・アンダーソン美術館(2018年に開館したAmos Rex美術館の前身)で開催されたそうです。

Sigrid Maria Rosina af Forselles, 1860-1935

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シグリッド・アフ・フォルセルスは、フィンランドで最初の女性彫刻家の一人で、ハメーンリンナ近郊のランミ生まれ。1876年にヘルシンキ絵画学校へ入学しますが、そこでは彫刻を教わることはできませんでした。1871年設立の彫刻学校 (Veistokoulu) もあったはずですが、その当時はまだ彫刻に興味がなかった、もしくは専攻していなかったのかもしれません。

1880年にパリのアカデミー・ジュリアンへ留学。その後エコール・デ・ボザールで学ぼうとしましたが、女性を受け入れていなかったため、アルフレッド・ブーシェから彫刻の個人レッスンを受けることになりました。その後ローマへ行くことになったブーシェから、オーギュスト・ロダンを紹介されます。ロダンの弟子となった彼女は『カレーのブルジョワジー』の制作を手伝いました。

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Les Bourgeois de Calais, 1888
1901年、フィンランド人女性として初めてフランス芸術協会のメンバーとなりましたが、フィンランドで作品を展示することがなかったため、本国では彼女についてほとんど知られていなかったそうです。

Hilda Maria Flodin, 1877-1958

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彫刻家のヒルダ・フローディンは、フィンランドで最初のグラフィック・アーティストの一人でもあります。ヘルシンキの裕福な家庭で育った彼女は、家族のサポートを得て、1893年、16歳で絵画学校へ入学。ヘレン・シャルフベックやアルベルト・ゲハルド、エリン・ダニエルソン=ガンボージ、マリア・ヴィークなどに学びました。

1899年にパリのアカデミー・コラロッシへ、1903年から1906年まではロダンの助手を務めました。また彼女は1907年、フィンランドで初めて開催されたグラフィックアートの合同展示会に唯一の女性アーティストとして参加します。アルベルト・エデルフェルトはフィンランドで最も優れた銅板画家であると称賛しました。

ヘレン・シャルフベックをとても尊敬していたそうで「…シンプルに、シンプルに、それ以外のことを気にしないように…」という彼女の言葉を晩年まで、ずっと覚えていたそうです。また彼女の最も有名な作品は、ゲセリウス・リンドグレン・サーリネン設計によるポホヨラの正面玄関の彫刻です。

Elga Charlotte Sesemann, 1922-2007

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エルガ・セーセマンは、ヴィボルグ生まれの表現主義の画家です。ロシアとの冬戦争が始まる頃、ヘルシンキへと避難してきました。1941年からヘルシンキ絵画学校で学んでいましたが、1943年、彼女が描いている絵を、校長が勝手に筆をとり修正したことが我慢できず、フリー・アートスクール(Vapaaa taidekoulu)へ転校しました。

1945年に初の個展を開催。同年、画家のセッポ・ナータネンと結婚し、タンペレから北に約80kmのルオヴェシで暮らすようになります。また彼女は1959年に自伝小説を、2002年に80歳で詩集を出版しています。彼女のホームページでは、作品を年代ごとに閲覧することができます。またルオヴェシの家は、湖の向こうにアクセリ・ガッレン=カッレラの家があった場所で、電気も水道も電話も道路もなかったそうです。

以上『モダン・ウーマン』展、7名の紹介でした。フィンランド美術の黄金時代ともいえる1880年代〜1910年代の「絵画学校 → 留学 → 教師」という芸術家たちが辿った道のようなものが見えてきたのではないでしょうか。

参考:Hilda Flodin (Keuruun Museo)
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