光の記憶 〜 ヘレン・シェルフベック


もう灯台なんて必要ないのかもしれません、GPSがありますからね。でも、長い航海から港へ戻ってきたとき、この灯台の光を目にしたら、どんなにうれしいだろうって思うんです。誰かが待ってくれていることや、どこかに帰れる場所があることは、いつだって心強いものですから ──

Toipilas|快復期
Toipilas|快復期

今回、紹介するのはヘレン・シェルフベック。個人的には、トーベ・ヤンソン以外で初めて知ったフィンランドの芸術家です。なんの予備知識もありませんでしたが、とにかく『快復期』という作品を観てみたくて、展覧会へと出かけました。


Helene Schjerfbeck, 1982-1946


本名は、ヘレン・ソフィア・シェルフベック(ヘレネ、ヘレナ? 外国語の名前表記は難しい)、ヘルシンキ生まれ。2022年に日本公開された映画『魂のまなざし』でも杖をつく彼女の姿が描かれていましたが、4歳の時に階段から転落し、足が不自由になりました。しかし幼い頃から絵の才能に恵まれ、1973年、11歳でヘルシンキ素描学校へ入学。彼女の学費は、前回の記事で紹介したアドルフ・フォン・ベッカーによって支払われました。


この学校で出会ったマリア・ヴィークやヘレナ・ヴェスターマルクとは生涯の友人となります。1877年に素描学校を卒業すると、今度はベッカーの私塾でフランス写実主義の油彩の技術を学びます。1879年、17歳の時にフィンランド美術協会のコンペティションで3位に入賞し、同協会の展覧会でも作品が展示されました。その翌年にはロシア元老院からの奨学金を得て、パリに留学します。



Académie Colarossi, Paris

Académie Colarossi


パリではヘレナ・ヴェスターマルクと一緒にアカデミー・コラロッシで学んだシェルフベック。「画家のまち」として知られるフランス北西部ブルターニュ地方にあるポン=タヴァンで暮らしたり、フランス芸術アカデミーのサロンにも参加しました。


ゴーギャンがポン=タヴァンで暮らしはじめたのが1886年なので、それより前(1883, 84年頃)にシェルフベックは過ごしていたことになります。当時のフィンランドの芸術家たちは好奇心に突き動かされて、もっと広い世界をみたいと強く感じていたのかもしれません。


1885年、足が不自由であるなど健康上の理由で婚約を破棄されます。このことは彼女にとってとても重大な出来事だったようです(そのためか相手については公表されず、生涯未婚のままでした)。



St Ives, Cornwall


1887年には美術協会からの援助を受け、イギリスのセント・アイヴスを訪れます。ここで描かれた『快復期』はパリ万国博覧会で銅メダルを獲得し、のちにフィンランド美術協会のコレクションとして購入されました。


絵の中の少女のモデルは、彼女自身であると言われています。起きたばかりのような表情と寝ぐせ、窓からのあかるい光と手にしている小枝のあたらしい芽。とてもしずかな情景ですが、たしかな希望を感じます。


1890年代に入るとヘルシンキ絵画学校で教鞭をとります。『モダン・ウーマン』展にも出品していたシグリッド・シューマンやヒルダ・フロディンらも彼女から学んでいます。その後は体調を崩すなどして作品数が減っていきましたが、様々な技法を試しながら絵を描きつづけました。



彼女が活躍していた当時はまだ女性画家がめずらしく、あまり好意的に受け入れられていないところもありました。しかし現在ヘレン・シェルフベックは、フィンランドで最も尊敬されるモダニズム画家であるとされています。そのことを証明するように彼女の誕生日である7月10日は、「フィンランド美術の日|Suomen kuvataiteen päivä」としてお祝いされてきました。


フィンランドでは2020年からトーベ・ヤンソンの誕生日である8月9日を「フィンランド芸術の日|Suomalaisen taiteen päivä」として推奨することになっています。


苦しみや悲しみはいつだって消え去ることはない。あかるい光のもとでは、影もより深くなっていく。それとは反対に真っ暗闇のなかにあっても、ちいさな光さえあれば進んでいくことができる。どんなに遠く、ささやかであったとしても。もしかしたら光なんてどこにもないって思うことがあるかもしれない。そんなときには記憶のなかにある光を思い出してみるといい。それはけっして失われることはないから。


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