太陽と海の季節 〜 エリン・ダニエルソン=ガンボージ
この美術館はそもそも灯台ですから、小さな明り取りしかありません。それでも朝と夕方では、その絵が全く違って見えるんです。画家の目に映った光がいまも絵の中で輝いて、太陽の傾きや海からの風に反応しているのかもしれませんね ──
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In The Vineyard, 1898(葡萄畑の中で) |
Elin Kleopatra Danielson-Gambogi, 1861-1919
エリン・ダニエルソン=ガンボージは、写実主義の作品や肖像画でよく知られています。ヘレン・シャフルベックらとともに女性芸術家の最初の世代であり、イニンゲビー・アーティスト・コロニーの一員でもありました。
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Self-Portrait, 1900 |
15歳でヘルシンキ絵画学校へ入学、1878年からアドルフ・フォン・ベッカーのもとで学び、1883年にパリのアカデミー・コラロッシへ留学します。夏にはブルターニュを訪れ、自然主義の画家ジュール・バスティアン・ルパージュと出会うなどして、より色鮮やかな風景画を描くようになりました。
幼い頃に父親を失ったため、経済的な自立というものを重要に考え、磁器の絵付けの技術を学び、実際にアラビアの工場で働いたり、美術教師の免許を取得したりしています。またパリでは、友人のシグリッド・アフ・フォルセルからロダンのアトリエを紹介され彫刻の基礎を学んだそうです。独立心が強く、とても意欲的な人だったのではないでしょうか。
フィンランドに帰国すると彼女はオーランド諸島のイニンゲビー・アーティスト・コロニーに参加します。1888年にはノールマルック(※有名なマイレア邸のある町)にアトリエを開き、美術教師としても働きました。
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その間もたびたびパリを訪れていましたが、象徴主義の時代になると芸術の中心としてのパリの地位は衰退していました。そのため1895年に奨学金を得ると、今度はイタリアのフィレンツェへと向かいます。
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La Merenda, 1904 |
翌年には、海岸沿いの村アンティニャーノに落ち着きます。ここで彼女はイタリアの太陽とその自然の色に魅了され、地中海の絵を熱心に描くようになりました。
そんな中、13歳年下の画家ラファエロ・ガンボージと出会います。二人は影響を与え合いながら、それぞれ賞を受賞するなどしてイタリアでも高い評価を得ていきます。そして1900年、彼女はパリ万博に出品した《葡萄畑の中で》と《母》で銅メダルを獲得しました。
その後、ラファエロの女性問題でフィンランドへ帰国しますが、彼の精神疾患を看病するため再びイタリアへ戻ります。彼女は二人の生活費の工面のため、絵の売却や展覧会の開催など大変苦労しながら絵を描き続けました。
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After Breakfast, 1890 |
当時はまだ女性がタバコを吸っている姿などが描かれることはなく、保守的なフィンランドの芸術評論家には批判されることもありました。しかし彼女は、伝統的なジェンダーの役割というものに反抗し、女性はもっと尊重されるべきだと考えていました。彼女が絵の題材として、女性の生活や母と子との関係を多く選んだのは、そんな理由があったからかもしれません。
参考:800 Art Studio
画像はすべてWikimedia Commons