すべての若き野郎ども 〜 ティコ・サッリネン、ヴァッレ・ローゼンベルグ、ヤルマリ・ルオココスキ
たまに近所のやんちゃ坊主が入り口から美術館の中をのぞいてたりするんですが、そんな時には裏口から出て、そっとしておくんです。絵っていうのは誰かに見せられるものじゃなくて、自分で見るものですからね ──
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Portrait of Tyko Sallinen, 1919 |
ここからは表現主義の芸術家を紹介します。主義と関連があるのかはわかりませんが、破天荒な画家たちが多い印象です。まずはティコ・サッリネン、ヴァッレ・ローゼンベルグ、ヤルマリ・ルオココスキの3名をどうぞ。
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Tyko Konstantin Sallinen, 1879-1995
ティコ・サッリネンは、北カレリア地方のヌルメスという町で生まれました。フィンランドの表現主義のリーダーであり、写実主義や象徴主義など前時代の画家たちの常識を打ち破ろうとしました。1902年からヘルシンキ絵画学校でアルベルト・ゲハルトに師事し、1909年、パリでフォーヴィスムに触れます。1912年に開催したグループ展では、リアリズムから逸脱したその画風で多くの批判を浴びました。
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The Washerwoman, 1911 |
フォーヴィスム(Fauvism)とは、印象派の具象的・写実的な価値観よりも、芸術家自身の感覚を重視するものであり、その強く明るい色彩はデッサンや構図などに縛られず、自由に表現される。「フォーヴ」はフランス語で「野獣」のこと。また当時のフィンランド芸術協会会長であったアクセリ・ガッレン=カッレラを「paskahousu|腰抜け」と呼び、協会から除籍されるという事件がありました。
1915年の9月グループの展覧会に参加した際には、その作品をアテネウムに寄贈しましたが断られ、返却されています。この9月グループ (Septem-ryhmä) は、マグヌス・エンケルやアルフレッド・ウィリアム・フィンチ、エレン・テスレフらによって1912年に結成されたグループで、印象派の影響(特に色づかい)を強く受けていました。
それでもコペンハーゲンのフィンランド展で好評を得た『Hihhlit』という作品は、1918年にアテネウム美術館のコレクションとして購入されています。その後にはフィンランド芸術アカデミーの名誉会員にもなりました。サッリネンにとっては写実的に描くことよりも、リズムや素朴さ、原始性といったものがとても重要だったようです。妻をモデルにした絵では、いつも「豚」のような顔に描いたそう ── 謎です。
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Gustaf Waldemar (Valle) Rosenberg, 1881-1919
ポルヴォーで大工の息子として生まれたヴァッレ・ローゼンベルグは、1906年に中央工芸学校 (Taideteollisuuden keskuskoulu)、1910年からヘルシンキ絵画学校で学びました。現存する作品は、この時期に描かれたものです。
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Ranta-aittoja Porvoosta, 1910 |
1913年にパリへ、その後イタリアへと旅をします。そこでシリという女性と出会い、子どもを授かりますが、経済的な理由から彼女はスウェーデンへ帰国してしまいました。しかし戦時中であったため、彼がフィンランドへ戻ることができたのは1919年のことでした。
28歳という短い生涯で100点以上の油絵を描きましたが、最後の6年間の作品は全て失われてしまいました。フィンランドへ戻るとき、イタリアに作品を置いてきたからだそうです。
彼の孫であるセバスチャン・ダーケルトがポルヴォー美術館の回顧展を訪れ、レポートしています(YLE 2019年5月24日の記事)。
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Joel Jalmari Ruokokoski, 1886-1936
ヤルマリ・ルオココスキは、肖像画や風景画で知られる表現主義の画家です。1902年に中央工芸学校、1903年にヘルシンキ絵画学校へ通いました。彼は海外のアカデミーなどでのエリート教育を受けておらず、美は内側から生まれるものであると考えていたそうです。
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Woman, 1914 |
1909年、サーカス好きな彼は、サーカスで綱渡りを担当していたスウェーデン系イタリア人女性と結婚し、翌年、奨学金でパリへ向かいます。その後、デンマークでティコ・サリネンを雇っていた仕立て屋兼美術コレクターのニルス・ライデンの家で彼らの肖像画などを描きながら暮らしました。
帰国後、アテネウムの展覧会で絵を売ることができると、パーティのどんちゃん騒ぎでほとんど浪費してしまいます。その後も浪費癖はずっと治りませんでした。1919年に彼がヘルシンキから北へ約50kmのヒュビンカーという町に建てたスタジオの名前は「Humala ja Krapula|ホップと二日酔い」。飲酒が原因で体を壊し、49歳で亡くなってしまいました。