フィンレイソンと手工芸友の会

手作りってとても贅沢ですよね。いえ、豊かといった方がいいでしょうか。そこに費やされた時間やそのひとの想い。上手い下手もないですし、すべてが愛おしく感じられます。じぶんでもできるっていうところが、また。ええ、美術館の看板を作ってみたんです。いかがでしょうか ──



Finlayson & Co.

1820年、スコットランド出身のジェイムス・フィンレイソンによって、当時の北欧諸国を代表する企業のひとつでもあるフィンレイソン綿織物工場が、タンペレに創設されました。

James Finlayson, 1772-1852? / Tammerkoski, 1847
James Finlayson, 1772-1852? / Tammerkoski, 1847

独学で技師となったスコットランド出身のフィンレイソン。1817年サンクトペテルブルクに移住し、ロシア皇帝アレクサンダーIの支援を受けて、そこに繊維工場を設立しました。彼はまたクエーカー教徒として活動しており、1819年に聖書を販売する目的でタンペレを訪れます。

タンペレの街は、ナシ湖とピュハ湖の間に位置しています。その高低差を利用して、水力発電所を建設するにはぴったりの場所でした。アレクサンダーI世がフィンランドへ視察に訪れた際、その計画が持ち上がったようです。フィンレイソンがタンペレを訪れたのも、工場建設というもう一つの目的があったのかもしれません。

その翌年フィンレイソンは、フィンランド元老院からタンメルコスキ急流の水力を利用した工場の建設許可を得ると、妻のマーガレットと共にタンペレに移住しました。1823年に最初の工場が完成すると、フィンレイソンは新しい労働者を訓練するためイギリスから機械工を連れてきます。また工場建設のための融資を受ける条件として、タンペレの一般市民の技術向上のために、工場を自由に視察できることが決められていました。

Finlayson Factory
Finlayson Factory

Kuusvooninkinen
Kuusvooninkinen

「クーシヴォーニンキネン」は、1847年に建設されたフィンランドで最初に建てられたフィンレイソンの工場ビル。6階建てであることからその名がつきました(6=kuusi)。

工場では当初、紡績機を製造していましたが思ったように売れず、1828年から製綿工場として再出発します。それでも不採算が続いていたことからフィンレイソンは、1836年「Finlayson & Co.」という名称を残すことを条件に、ゲオルク・ローチとカール・ノットベックへ工場を売却しました。

Finlaysonin palatsi, 1899 / Finlayson kirkko, 1879
Finlaysonin palatsi, 1899 / Finlayson kirkko, 1879

その後、フィンレイソン社は発展を遂げ、工場の労働者のために学校や病院、教会や住宅などが造られました。その意味でフィンレイソン社が、タンペレという街そのものを築いたといっても過言ではありません。ピーク時には3,000人の労働者がフィンレイソンの工場で働いていたそうです。2020年に創立200年を迎えたフィンレイソン社。当時の工場は現在、博物館や映画館などもあるショッピングセンターとして活用されています。

フィンランド手工芸友の会

フィンレイソン社をはじめとするテキスタイル産業の発展により安価な製品が手に入るようになると、自らの手で作ることへの関心が低下していきました。そこで貴重な手工芸品の伝統を守るため、画家ファニー・チュルベリを中心として「フィンランド手工芸友の会|Suomen Käsityön Ystävätが設立されます。

Fanny Churberg, 1845-1892
Fanny Churberg, 1845-1892

ヴァーサ生まれのファニー・チュルベリは、ヘルシンキで絵画の個人レッスンを受けたのち、デュッセルドルフ芸術アカデミーで学びました。またパリに留学した最初のフィンランドの画家でもあります。彼女は同時代の人々にはほとんど評価されず、1880年には絵を描くことを辞めてしまいました。しかし短いキャリアの中で描かれた300点以上の作品は1900年代になり再評価されました。ヘレン・シャルフベックも彼女を目標としていたそうです。

Autumn Landscape by Fanny Churberg, 1878
Autumn Landscape by Fanny Churberg, 1878

Winter Landscape, Evening Atmosphere, 1880
Winter Landscape, Evening Atmosphere, 1880

手工芸友の会の設立目的は、人気のあるテキスタイルを収集し、それらのパターンの新しい応用法を見つけること、忘れられていたテキスタイルの伝統を復活させることでした。また、フィンランド独自のスタイルを確立することによって、国民の民族意識を高めることも目標としていました。

Fanny Churbergの実際の読みは違うかもしれません。彼女について【絵画編】では取り上げませんでしたが、ヘレン・シェルフベックやエレン・テスレフと同様に評価されているそうです。静かだけれど自然の大きさや力強さを感じさせる作品だと思います。

ロゴはSuomen Käsityön Ystävätから
その他の画像はすべてWikimedia Commons