懐かしい未来、あたらしい過去 〜 ゲセリウス・リンドグレン・サーリネン

自分の知らないことは、すべて新しいことではないでしょうか。それはきっと、もうすでに忘れてしまったことも。ですからお年寄りの昔話も、子どもたちの発見も新しい。そんな毎日に囲まれているから、いつも変わらないこの灯台にいられるのかもしれません ──


フィンランドのユーゲントシュティール

Usko Nyström / Imatran Valtionhotelli, 1903
Usko Nyström / Imatran Valtionhotelli, 1903

19世紀末頃になると、新古典主義に代表される歴史回帰・折衷様式は批判され、建築家たちは新しいスタイルを求めるようになりました。そこに登場したのが「構成と装飾の一致」を理念とし、曲線美と唯一無二のデザイン性を特徴とするユーゲントシュティール(アールヌーボー)様式です。

当時、建築学校の学生たちは、中世の石造りの城や教会、旧市街や木造教会などの調査・研究することで、フィンランドの建築遺産を再発見していきました。また建築家クラブでも芸術家たちと同様、国家の独立を目指した様々な議論が交わされました。

こうしてフィンランドのユーゲントシュティールは、自然やルーツへの回帰、カレワラに代表されるナショナルロマンティシズム(民族的ロマン主義)と融合し、独自に発展していきました。

Gesellius Lindgren Saarinen 設計事務所

フィンランドのユーゲントシュティールを代表するのが、ゲセリウス・リンドグレン・サーリネンという3人の建築家による設計事務所です。

フィンランド館 / Suomen paviljonki, 1900
フィンランド館 / Suomen paviljonki, 1900

ヘルシンキの建築学校に在籍していたヘルマン・ゲセリウス、アルマス・リンドグレン、エリエル・サーリネンは、1896年に共同事務所を設立します。1900年のパリ万国博覧会のために設計したユーゲントシュティール様式のパビリオンで、彼らは世界的な名声を手にすることとなりました。

ポホヨラ保険会社 旧本社ビル / Pohjolan toimitalo, 1901
ポホヨラ保険会社 旧本社ビル / Pohjolan toimitalo, 1901

そして彼らは、ポホヨラ保険会社ビル国立博物館というフィンランドの民族ロマン主義を代表する2つの記念碑的な石造りの建物を完成させます。ポホヨラの正面玄関には、以前ご紹介したヒルダ・フローディンの民族的モチーフの彫刻があります。

フィンランド国立博物館 / Suomen kansallismuseo, 1910
フィンランド国立博物館 / Suomen kansallismuseo, 1910

また、博物館は1916年に一般公開され、国家独立後の1917年に国立博物館に指定されました。エントランスホールの天井にはアクセリ・ガッレン=カッレラの描いたカレワラのフレスコ画があります。

ヴィトレスク / Hvitträsk, 1903
ヴィトレスク / Hvitträsk, 1903

パリ万博後、彼らは仕事に専念できる静かな場所を求めて、キルッコヌンミ(ヘルシンキから西へ約30km)に共同住宅兼アトリエを建設しましたこのヴィトレスクは、のちにサーリネンの私邸となり、現在はミュージアムとして一般公開されています。

1905年、リンドグレンが独立したことにより事務所は閉鎖されましたが、ゲセリウスとサーリネンは1907年まで一緒に仕事をしました。

Eliel Saarinen, 1873-1950

ヘルシンキ中央駅 / Helsingin rautatieasema, 1919
ヘルシンキ中央駅 / Helsingin rautatieasema, 1919

ヘルシンキ中央駅は、エリエル・サーリネンが設計した最も有名な建築です。当初はフィンランドの民族ロマン主義をもっと前面に押し出したデザインを計画していましたが、若い建築家たちからの批判が殺到し、それらの意見を聞き入れながら計画変更を行いました。 

Munkkiniemi–Haaga-suunnitelma, 1915
Munkkiniemi–Haaga-suunnitelma, 1915

また彼は、1911年からタリンやブタペストの都市計画コンサルタントとして働きます。その後、ヘルシンキの都市計画に取り組み、1915年にはムンキニエミ=ハーガ計画、1918年にはヘルシングフォルス計画を完成させました。しかし、計画が実現されたのはほんの一部だけです。

このようにサーリネンには評価されながらも頓挫した設計がいくつかあります(新しい国会議事堂やカレワラの家、トゥルクの新市庁舎など)。また彼は、建築だけでなく切手やマルッカ紙幣などのデザインも手掛けました。

Chicago Tribune Tower, 1922 (sketch)
Chicago Tribune Tower, 1922 (sketch)

1922年、サーリネンはシカゴ・トリビューンのためのコンペティションに参加します。それまで実際に高層建築を見たことがなかったにもかかわらず、第2位を受賞しました。その翌年にアメリカへ移住し、ミシガン大学の教授として働くことになりました。

Cranbrook Educational Community, 1932
Cranbrook Educational Community, 1932

彼が設計したクランブルック教育コミュニティは、ミシガン州にある私立の名門校で、美術大学院は世界の美大の中でも超難関校として知られています。この学校からはイームズ夫妻をはじめ優れたデザイナーや芸術家が輩出されています。また、サーリネンは初代校長にも就任しています。

Armas Lindgren, 1874-1929

アルマス・リンドグレンは、北欧諸国やドイツ、フランス、イギリス、オランダなど多くの国を旅しながら、芸術や文化の歴史を学びました。17、18世紀の木造教会の建築的価値を最初に理解した建築家であり、ラウマ旧市街の保護にも熱心でした。

クーサンコスキ教会 / Kuusankoskin kirkko, 1929
クーサンコスキ教会 / Kuusankoskin kirkko, 1929

彼は、1900年に技術専門学院で美術史を教え、1902年から1912年までヘルシンキ中央美術工芸学校で芸術監督を務めました。1919年にはヘルシンキ工科大学建築学科の教授に就任し、アルヴァ・アアルトを指導するなど、後進の建築家たちに大きな影響を与えました。

ユニオン通り26  / Unioninkatu 26, 1913
ユニオン通り26  / Unioninkatu 26, 1913

またリンドグレンは、公共施設や共同住宅、教会など多くの建築を残しています。1910年代には、ヴィヴィ・レンと共同でヘルシンキ大学学生寮やタリンのエストニア劇場の設計を手がけました。

エストニア劇場 / Estonia teatrihoone, 1913
エストニア劇場 / Estonia teatrihoone, 1913

Herman Gesellius, 1874-1916

当初、エンジニアを目指していたヘルマン・ゲセリウスは、1892年にサンクトペテルブルクの工場でインターンとして機械工学を学びました。翌年、建築学校へ入学し、1897年に卒業します。

Annankatu 11, 1910 / Wuorion talo, 1913
Annankatu 11, 1910 / Wuorion talo, 1913

ゲセリウスの設計で最もよく知られているのは、1913年に完成したヴィープリ駅です。1941年の継続戦争でほぼ完全に破壊されてしまいましたが、サーリネンの設計したヘルシンキ中央駅と非常によく似ています。

ヴィープリ鉄道駅 / Viipurin rautatieasema, 1913
ヴィープリ鉄道駅 / Viipurin rautatieasema, 1913

ゲセリウスは1912年に喉に癌を患い、1916年に32歳の若さで亡くなってしました。そのため残されている建築は多くありません。現在、彼はヴィトレスクに埋葬されています。

ゲセリウスの妻は、サーリネンの最初の妻マチルデでした。サーリネンはその後、ゲセリウスの妹でテキスタイルデザイナーのローヤと結婚しました。とても不思議な関係です。サーリネンもまたヴィトレスクに眠っています。

ゲセリウス・リンドグレン・サーリネン。この並びは一体どうやって決めたのでしょう。アルファベット順? 読みやすさ? ジャンケン? 眺めているとこの並びしかないような気もしてきます。もしかしたらリンドグレンが事務所を独立した理由だったりするのかも、笑。

表記のない画像はすべてWikimedia Commons