アールトと巨匠たち
おそらく才能というのは諦めない力のことだと思うのです。なにかを好きで居続けることだといってもよいかもしれません。と、いつも来てくれるおばあさんが声をかけてくれました。ずっとこの灯台を見守ってくれている先生みたいなひとです ──

みなさんご存知のように、アルヴァ・アールトは、フィンランドが生んだ20世紀を代表する建築家/デザイナー。グンナール・アスプルンドと並び、北欧の近代建築家として最も影響力のあった人物です。今回はアールトの代表的な建築について紹介しながら、世界的な巨匠と呼ばれる建築家との交流についてお届けします。
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ヴィープリ図書館
ヴィープリ図書館は、アールトが北欧古典主義から機能主義*へと移行したことを象徴する建築です。波型の木製天井は、モダニズム空間に相反するフィンランドの伝統的な材料である木材を用いることで、アールト独自のモダニズムを押し進めるきっかけになりました。
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Viipurin kaupunginkirjasto, 1927-1935 |
* 機能主義とは、建物はその建物の目的に基づいて設計されるべきであるという原理。1930年代半ばになるとデザインの統合性の問題としてよりも、美学的なアプローチとして議論され始めました。
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トゥルク新聞社ビル
ヴィープリ図書館の建築が資金調達や敷地変更の問題で止まっている間、アールトはトゥルク新聞社ビルの設計を手がけます。フィンランドで最初の機能主義の建築といわれ、新聞社の事務所や印刷設備だけでなく貸店舗や小さなホテル、住居なども入った商業ビルでした。ル・コルビュジエの5つの基本原則* にのとって設計されています。
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Turun Sanomien toimitalo, 1929 |
* ル・コルビュジエの5つの基本原則(近代建築の5原則)
1. ピロティ:建物を浮かせる
2. 屋上庭園:屋根を平らにする
3. 自由な平面:構造壁をなくす
4. 水平連続窓:室内をより明るくする
5. 自由なファサード:自由にデザインする
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パイミオ・サナトリウム
アールトが国際的な建築家として知られる出世作となったのがパイミオ・サナトリウムです。建物自体が治癒プロセスに貢献するような設計を目指しました。また彼は、スヴェン・マルケリウスを通じて、CIAM*(近代建築国際会議)のメンバーとなり、ヴァルター・グロピウスやル・コルビュジエなど当時のモダニズムの巨匠たちと交流を深めました。
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Paimion parantola, 1933 |
* CIAM(近代建築国際会議)とは、都市や建築の将来について討論を重ねた国際会議。モダニズム建築の展開の上で大きな役割を担った。1928年から1959年までに各国で11回開催。
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マイレア邸
マイレア邸は、アルテックの創設者の一人でもあるマイレとハリー・グリクセンの別荘・ゲストハウスとして建てられました。さらにアールトは、ル・コルビュジエに次ぐ2人目の建築家としてMOMAで回顧展(1938年)を開催し、ニューヨーク万国博覧会(1939年)のフィランド館は、フランク・ロイド・ライト*に「天才的な作品」と評されるなど、アメリカでもその評判は高まり、マサチューセッツ工科大学の客員教授も務めました。
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Villa Mairea, 1939 |
* フランク・ロイド・ライト(1867-1959)は、ル・コルビュジエ、ミース・ファン・デル・ローエ、ヴァルター・グロピウスと共に「近代建築の四大巨匠」と呼ばれるアメリカの建築家。日本にも自由学園明日館など、彼の建築がいくつか残されています。
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フィンランディア・ホール
1959年、ヘルシンキの都市設計を依頼され、その構想に10年以上かけます。市に計画変更を告げられると、アールトは何度も改善策を提案しましたが、結局、実現したのはフィンランディア・ホールとサフコタロ(電力会社ビル)のみでした。
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Finlandiatalo, 1967-1971 |
このフィンランディア・ホールは、ヘルシンキ中心部のトーロ湾にあります。トーロ湾東岸から見たときに国立博物館の塔と同じ高さに調整されているそうです。もちろん内装デザインも手がけ、長いキャリアから生まれたアールトの成熟度が感じられるといわれています。
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エンソ=グッツァイト本社ビル
周辺の景観にそぐわず、以前そこにあった美しい歴史的建造物が解体されてしまったため、最も評判の悪いアールト建築。その形から「角砂糖」と呼ばれました。みずからも巨匠といわれるようになったアールトにもこのような評価が‥‥。
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Enso-Gutzeit Oy:n pääkonttori, 1962 |
表記のない画像はすべてWikimedia Commons