家族の風景 〜 フェルディナンド・フォン・ライト、アルベルト・エデルフェルト

どうすれば灯台守になれるかですって? どうすれば芸術家になれるかというのと同じくらい難しい問題ですね。いえ、それは冗談として、この灯台は父から受け継いだだけなのです ──

Boys Playing On The Shore, 1884 by Albert Edelfelt
Boys Playing On The Shore, 1884 by Albert Edelfelt

ここからは、フィンランドの写実主義の画家を紹介していきます。まずはフェルディナンド・フォン・ライトとアルベルト・エデルフェルトからです。

Ferdinand von Wright, 1822-1906

フェルディナンド・フォン・ライトは、自然の風景や動物(主に鳥など)を写実的に描きました。クオピオ近郊のハミナラハティで、9人兄弟の末っ子として生まれ、マグナスとウィルヘルムという兄弟も画家です。そんな彼らのあとを追い、幼い頃からスケッチブックを片手に自然探索をしていました。

In the Garden of Haminalahti, 1856–57
In the Garden of Haminalahti, 1856–57

16歳の時、スウェーデンで動物画家をしていた兄ウィルヘルムの伝手で、アマチュア鳥類学者のニルス・ボンディ伯爵の下で働くことになります。1842年にはスウェーデン王立芸術アカデミーへ入学する機会を得ました。

フィンランドに戻ると1849年よりトゥルク絵画学校で学び、1852年に兄弟でヘルシンキにアトリエを構えます。1880年代頃には、すでにフランス印象派が注目を浴びており、彼の絵は時代遅れになりつつありました。しかし『闘うオオライチョウ』でフィンランド美術の伝統がまだ生きていることを示しました。この絵は、フィンランドでもっとも複製やモチーフにされてきた作品です。

The Fighting Capercaillies, 1886
The Fighting Capercaillies, 1886

Albert Gustaf Aristides Edelfelt, 1854-1905

アルベルト・エデルフェルトは、フィンランドにおける写実主義の始祖で、最も著名な画家のひとりです。彼の描く絵は、歴史画や肖像画、庶民の生活やフィンランドの田園風景などの自然主義的な描写、さらには宗教画まで、多岐にわたりました。

彼は、14世紀当時のテキスタイルや家具を研究し、モデルにもこだわりがあったそうです。ドレスのシルクや腕のベルベット感にも注目。

Queen Bianca, 1877
Queen Bianca, 1877

早くに父親を亡くしますが、母親は教育にとても熱心で、ヘルシンキ絵画学校 (1869年〜)、アドルフ・フォン・ベッカーの私立学校 (1871年〜)、ベルギーのアントワープ王立芸術アカデミー (1873年〜)、パリのエコール・デ・ボザール (1876年〜)、サンクトペテルブルグ芸術アカデミー (1881年〜)、と多くの学校で学びました。

彼は、母の友人でもあった詩人のヨハン・ルドヴィグ・ルーネベリをとても尊敬していました。ルーネベリも自著の挿絵を任せるなどして、若いエデルフェルトを支持していました。また母親との関係も良好で、拠点にしていたパリから毎年生まれ故郷のポルヴォーへ戻ってきたそうです。

彼はフィンランドの若い芸術家たちに影響を与え、アクセリ・ガッレン=カッレラやグンナル・ベルントソンなどの仲間がパリで活躍するのを助けました。とくに1900年のパリ万国博覧会でフィンランド性を打ちだした展示をすることができたは、ロシア皇帝アレクサンドルIII世ともコネクションがあった彼の外交的な説得によるものだと考えられています。そのパリ万国博覧会で、彼は金メダルを受賞しました。

Conveying The Child's Coffin/A Child's Funeral, 1879
Conveying The Child's Coffin/A Child's Funeral, 1879

限られた色で巧みに表現されています。少女の隣の女性は乳母がモデルだそうです。当時は子どもが亡くなることがよくありました。

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