首都を築いた外国人 〜 カルロ・バッシ、カール・ルードヴィッヒ・エンゲル


以前、大工をしていたことはお話ししましたよね。ある日、屋根の上で作業していると、向こうの丘に古いお城が見えたんです。空が青くて。ふと、この灯台のことを思い浮かべていました。自分のいるべき場所というのはなかなか気づかないものなのかもしれません ──

トゥルクからヘルシンキへ

18世紀後期からヨーロッパ各地では、新古典主義、ネオロマネスク、ネオゴシック、ネオルネッサンス、ネオバロックといった様々なリバイバル様式の建築が建てられるようになります。それらはスウェーデンなどを通じて、フィンランドにも伝わってきました。

とくに新古典主義建築は、バロックやロココの過剰な装飾性や軽薄さに対する反動として荘厳さや崇高美というものを目指しており、美を具現化するという、その普遍的な建築思想は、のちのモダニズム建築にも受け継がれることになります。

1809年、フィンランドがスウェーデンからロシアへと割譲されると、ロシア皇帝アレクサンダー1世はフィンランドの首都をトゥルクからヘルシンキへと移します。今回は、そんな時代に活躍した建築家カルロ・バッシとその後継者カール・ルードヴィッヒ・エンゲルを紹介します。

トゥルク - Carlo Bassi, 1772-1840

カルロ・バッシは、フィンランドで最初の職業建築家です。1783年にバレエダンサーであった姉ジョヴァンナと共にイタリアからスウェーデンに移住すると、スウェーデン国王のグスタフ3世の給仕として雇われました。

翌1784年からスウェーデン王立芸術アカデミーで建築を学び始め、ルイ・ジャン・デプレ(画家、建築家)に師事します。卒業後、カール・クリストファー・ギョルウェルの助手として、ストックホルム市の建築家としてキャリアをスタートさせました。

旧トゥルク王立アカデミービル / Akatemiatalo, 1817 (1833)
旧トゥルク王立アカデミービル / Akatemiatalo, 1817 (1833)

旧トゥルク王立アカデミービルは、カール・クリストファー・ギョルウェルの設計による新古典主義の建築。トゥルク大火により荒廃しましたが、カール・ルードヴィッヒ・エンゲルが復元しました。現在は裁判所として使用されています。

1802年、バッシはフィンランドに渡り、ギョルウェルが設計したトゥルク王立アカデミーの建設を監督します。建物の完成は1817年まで遅れましたが、その頃すでにバッシはトゥルクで独立した建築家としての地位を確立していました。

トゥルク市庁舎 / Seurahuone, 1812
トゥルク市庁舎 / Seurahuone, 1812

現在トゥルク市庁舎として利用されている建物は、当時フィンランドの首都であったトゥルクに建設されたフィンランド初のホテルでした。

1810年に彼はフィンランドの教会建築計画を担当する政府機関「国家建築委員会」の責任者に任命されます。1821年にはその国家建築委員会と共にヘルシンキへ移りますが、1824年に辞任。その後はトゥルクで活動しました。

フィスカルス / Fiskars, 1816-18
フィスカルス / Fiskars, 1816-18

フィスカルスは、フィスカルス社の前身であるFiskars Brukの跡地。現在は数多くのアーティストや職人が移住し、フィンランドのアートやデザインの中心地となっています。2019年には、Fiskars Village Art & Design Biennale が開催されました。

バッシの建築は、新古典主義様式(グスタフ3世にちなんで「グスタヴィアン様式」とも呼ばれる)が特徴で、本来のものよりシンプルで控えめなアレンジとなっています。トゥルクの中心部の建築はバッシの作品によって形づくられているといっても過言ではありません。

タンペレ旧教会 / Tampere vanha kirkko, 1825
タンペレ旧教会 / Tampere vanha kirkko, 1825

マーラフティ教会 / Maalahden kirkko, 1829
マーラフティ教会 / Maalahden kirkko, 1829

バッシが手がけたこれら二つの教会の鐘楼はいずれも、次に登場するカール・ルードヴィッヒ・エンゲルによる設計です。

ヘルシンキ - Carl Ludvig Engel, 1778-1840

ドイツ出身のカール・ルードヴィッヒ・エンゲルは、首都ヘルシンキの中心地である元老院広場とその周辺の建物(ヘルシンキ大聖堂、元老院、ヘルシンキ市庁舎、図書館、ヘルシンキ大学本館など)のほとんどを設計した建築家です。

ヘルシンキ大聖堂 / Helsingin tuomiokirkko, 1830-52
ヘルシンキ大聖堂 / Helsingin tuomiokirkko, 1830-52

ベルリン建築大学で学んだエンゲルは、プロイセンの建築行政に従事しました。しかし1806年にナポレオンがプロイセンに勝利したことで、彼をはじめとする建築家は海外で仕事を探すことを余儀なくされ、1808年、彼はエストニアのタリンに建築家の職を得ます。

ケルヌ・マナー / Kernu Manor, 1813
ケルヌ・マナー / Kernu Manor, 1813

数年後フィンランドへ渡り、1814年から1815年にかけてはトゥルクの実業家の元で働いていました。その頃、新しい首都ヘルシンキの再建計画を主導するヨハン・アルブレヒト・エーレンストレムと知り合います。

ヘルシンキ旧教会 / Vanha kirkko, 1826
ヘルシンキ旧教会 / Vanha kirkko, 1826

当時ドイツへ戻ることを考えていたエンゲルでしたが、1816年にエーレンストレムによってヘルシンキに招聘され、ヘルシンキ復興委員会の建築家に任命されました。まさかこの仕事が彼自身のライフワークとなるとは思ってもいなかったようです。

ヘルシンキ大学本館 / Helsingin yliopiston päärakennus, 1932
ヘルシンキ大学本館 / Helsingin yliopiston päärakennus, 1932

そして1824年、カルロ・バッシのあとを受け、エンゲルは国家建築委員会の長に就任し、名実ともにフィンランドの主任建築家となりました。また彼は1827年の大火で大きな損害を受けたトゥルクの新都市計画の責任者も務めています。

ヘルシンキ市庁舎 / Helsingin kaupungintalo, 1933
ヘルシンキ市庁舎 / Helsingin kaupungintalo, 1933

新古典主義やネオゴシックの建築だけでなく、ロシアバロックやネオビザンティンの影響を受けた建築がみられるヘルシンキはサンクトペテルブルグの縮図とも呼ばれました。

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