もうひとりの天才 〜 アイノ・アールト
もうひとり自分がいたなら夏の家にでも行きたいなといつも思うのですが、街から美術館へ来られた方々に「毎年灯台に来ると夏の家に来たって気分になるんだ」なんて言われてしまうと、ここはすでに夏の家だったのかなんて思うんですよね ──
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Villa Flora (Bard Graduate Center) |
ボルゲブリック
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Bölgeblick [Aino Aalto series] (©️Iittala) |
さてマイッカ灯台美術館、本日の展示は1932年にデザインされ、イッタラで最も長い歴史のあるアイノ・アールトの「ボルゲブリック」です。水の波紋をモチーフにしたデザインは、1936年のミラノ・トリエンナーレで金賞を獲得し、一躍有名になりました。機能的で手になじみやすく、かつ自然の親しみやすさを感じさせるフィンランドデザインらしい一品です。
前回ご紹介した「アールトベース」はアルヴァ・アールトのデザインとされていますが、アイノの協力もまた重要なものでした。アルヴァ設計の建築においても、とりわけ家具やインテリアについてはアイノの才能が発揮されていたようです。アルテックの初代アートディレクターをアイノが務めたこともその証拠のひとつといえるのではないでしょうか。
Aino Marsio-Aalto (Aino Maria Mandelin), 1894-1949
1894 ヘルシンキ生まれ。
1913 ヘルシンキ工科大学建築学科。在学中、アールトと出会う。
1924 アールト建築事務所にアシスタントとして入所。同年、結婚。
1926 アラヤルヴィに夏の別荘ヴィラ・フローラを建設。
1932 カルフラ=イッタラのコンペで、ボルゲブリックが2位を受賞。
1935 アルテック設立。アートディレクターとして活躍。
1936 ミラノ・トリエンナーレ、フィンランド館の会場構成でグランプリを受賞。またボルゲブリックも金賞。
1941 アルテックの最高経営責任者となる。
1949 癌のため自宅にて死去。
アルヴァ・アールトの建築におけるアイノの役割は具体的には検証されていないそうですが、当時名門とされていたオイヴァ・カッリオの事務所に勤務するなど、アルヴァに先んじて建築家の道を歩んでいました。またアイノは、1919年に設立された女子学生によるトゥムストッケン建築クラブにも参加しています。このクラブはのちにArchitecta(フィンランド女性建築家協会)となりました。
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リーヒマキの花
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Kukka (via Iittala) |
ガラスのデザインを得意としていたアイノと、当時フィンランド国内のガラス工場で最前線にあったリーヒマキガラス(Riihimäen lasi)には不思議な縁があります。リーヒマキの町があるハメ地方はアイノの両親の故郷であり、1912年に建てられた工場の設計はなんとオイヴァ・カッリオ。そして1933年、リーヒマキガラスのデザインコンペで、アイノとアルヴァの「リーヒマキの花」という作品は2位を受賞しました(この時のデザインはアルヴァの Kukka のプロトタイプのようにも思えます)。
リーヒマキガラス工場は1990年に閉鎖されましたが、その工場のひとつがタピオ・ヴィルカラによってリノベーションされ、フィンランドガラス美術館に生まれ変わっています。
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無名のアルヴァ・アールト
マイレ・グリクセンは、アイノほど明確な趣味(ヴィジョン?)を持った人間には会ったことはないと述べています。アルヴァ・アールトの評価の裏に隠れながら、アイノにはそれだけ独創的で優れた才能があったのでしょう。
いちばんの疑問は、なぜアイノ・マルシオは無名だったアルヴァ・アールトの建築事務所の門を叩いたのかということです。アルヴァの才能を見越していたのでしょうか? それとも自分の才能を発揮できる場所だと考えたからでしょうか?
アイノ・アアルトがアルヴァ・アールト対等な立場にあったとするならば、アルヴァを支えたアイノといった見方よりも、アールトはふたりいた、もしくは、ふたりでアールトだったと考えた方が良いのかもしません。
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竹中大工道具館にて「アイノとアルヴァ 二人のアアルト」という展覧会が開催されました。