森と湖の暮らし 〜 エーロ・ヤルネフェルト、ペッカ・ハロネン

うして灯台で暮らしていますと、休みの日など釣りに誘われたりします。内緒ですが、釣り針をつけずに糸を垂らします。なぜって、釣れてしまうと困るんです。どうしても生きた魚が触れないものでして ──

Burning The Brushwood, 1893
Burning The Brushwood, 1893

Erik (Eero) Nikolai Järnefelt, 1863-1937

東カレリアのヴィープリ出身のエーロ・ヤルネフェルトは、貴族の家系であり、父の将軍アレクサンダー・ヤルネフェルトは上院議員も努めました。1874年からヘルシンキ絵画学校、1883年からはサンクトペテルブルグ芸術アカデミーへ通い、叔父のミハイル・クロットに師事しました。1886年に留学したアカデミー・ジュリアンでは、アクセリ・ガッレン=カッレラらと交流します。

またパリではジュール・バスティアン=ルパージュの自然主義にも大きな影響を受けました。代表作ともいえる『Burning The Brushwood』では、少女のお腹が象徴しているように飢餓で苦しんだ時代。白樺の皮で編んだ靴など当時の暮らしの様子が描かれています。

1890年代、作家ユハニ・アホらと北カレリアを訪れ、森と湖に代表される最もフィンランドらしい景色が見られるコリの風景画を多く描きました。1901年にはトゥースラ湖にスビランタ邸を建て、1917年まで暮らします。カレリア地方コリの景色を描いた絵には、ジャポニズムの影響も見られます。

Landscape from Koli, 1928
Landscape from Koli, 1928

そして彼は1902年から1928年まで、ヘルシンキ絵画学校の教師として働きます。1912年には教授となり、1922年にフィンランド美術協会の理事会として設立されたフィンランド芸術アカデミーの会長も務めました。

Pekka Halonen, 1865-1933

ペッカ・ハロネンは、フィンランドの冬と雪をテーマにした風景画で有名です。クオピオの北60kmほどの村、ラピンラハティの農家に生まれました。父親は農業の傍ら近隣の教会の装飾画家としても活動し、母親は民族音楽家としてカンテレを弾きました。

Winter Landscape from Kinahmi, 1923
Winter Landscape from Kinahmi, 1923

1886年にヘルシンキ絵画学校でカール・ヤーンに師事し、同窓にはエレン・テスレフもいました。彼の在学中、1888年にアテネウムの中にフィンランド美術協会とヘルシンキ絵画学校が移転します。1890年にパリのアカデミー・ジュリアンへ留学。そこでアクセリ・ガッレン=カッレラやエーロ・ヤルネフェルトらと親交を深めました。1893年にはアカデミー・コラロッシでも学び始めますが、それを中断し、ゴーギャンに師事することにしました。

パリで学んでいるうち、ガッレン=カッレラからフィンランドに戻るように誘われます。ハロネン自身も何度かカレリア地方を訪れ、その暮らしや風景を描きました。1898年、家族でクリスマスを過ごすためトゥースラへ滞在しました。1902年にはそのトゥースラ湖の畔りにハロセンニエミを建て、周辺の芸術家たちとコミュニティを築きました。妻と8人の子どもたちと暮らし、菜園や釣りなど自給自足の生活を営んだそうです。

ハロネンの芸術には、国際性とフィンランドの独自性とが同居しています。前者はゴーギャンの綜合主義*やジャポニズム、後者は民族ロマン主義からの影響です。彼はフィンランドの風景を象徴的に捉えることで、国家としての誇りを育もうとしていたそうです。

From The Garden, 1913
From The Garden, 1913

*綜合主義
ゴーギャンら、ポン=タヴァン派の画家によって提唱された芸術運動。印象派が対象を感覚的に捉え、そのまま描くのに対し、綜合主義では対象の色や形を単純化し、そこに思想や哲学など精神性を込めることを重視した。

参考:Ateneum (Pekka Halonen 150 Years)
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