夢のおわりと理想のつづき 〜 エーム・ミンティ、エーロ・ネルマリッカ

私の夢は画家になることでした。才能がなかったというより、覚悟が足りなかったのでしょう。それでも自分で心から納得のできる絵が描けたなら、どんな場所に出しても恥ずかしくないと思える作品ができたなら、いつかこの美術館に ──

Members of The November Group,
Members of The November Group

フィンランド美術の黄金時代は、1910年代にひとまず終止符を打ちます。その最後を飾る表現主義では、民族主義的な視点を持ったフィンランド独自の表現が生み出されました。今回紹介するエーム・ミンティとエーロ・ネリマルッカは共にボスニア湾に面するフィンランド西部の町ヴァーサの出身です。こうしてヘルシンキから離れた場所からも芸術家を志す人たちが現れるようになりました。

Eemil Aleksander (Eemu) Myntti, 1890-1943

On The Beach, 1923
On The Beach, 1923

学生の頃から絵の才能を評価されていたエーム・ミンティは、学校を中退すると、1910年からアーサー・ハイケル(ティコ・サリネンやヤルマリ・ルオココスキらと同窓)の私立学校で学びました。その後1912年に留学したパリで、キュビズムに興味を持つようになります。

1919年から貿易商フリチヨフ・ティカノヤが後援者となり、毎月の資金援助を受けられるようになりました。そのため彼は長期間、海外で暮らしたり、自由に絵を描き続けることができました。しかし1929年、ティカノヤに内緒でルノーの高級車を購入し、後援関係を解消することになります。しかしティカノヤはその後も彼の絵を購入しました(いい人!)

ちなみに彼の妻エヴァはヒューゴ・シンベリの義妹であったため、ミンティは有名な画家であるシンベリと過ごすことをいつも楽しみにしていたそうです。

Eero Alexander Nelimarkka, 1891-1977

Self-Portrait, 1920
Self-Portrait, 1920

エーロ・ネリマルッカは、小学校を卒業すると見習い菓子職人として働き始め、15歳の時にヴァーサ職人組合から奨学金を得て、ストックホルムとドイツのリューベックへ留学しました。帰国後すぐに菓子職人を解雇されたそうなのですが、もしかすると修行をそっちのけで絵の勉強をしていたのかもしれません。またスウェーデンではカール・ラーションに興味を持っていたそうです。

1909年からベーカリーで働きながら、中央工芸学校でデッサンを学び始めます。当初はヘルシンキ絵画学校への入学を希望していましたが、中学の卒業証書がなかったため断られました。そのためアクセリ・ガッレン=カッレラの勧めで、パリのアカデミー・グランデショーミエールに留学します。

1912年に帰国するとヘルシンキ絵画学校への入学が許され、エーロ・ヤルネフェルトに師事します。その後、ティコ・サッリネンを中心に集まった表現主義者グループ「11月グループ|Marraskuun ryhmä」の一員となりました。11月グループのサリネン以外の結成メンバーは、マーカス・コリン、アルヴァ・カウェン、ユホ・リサネン、ガブリエル・エングベリで、1917年11月に最初のグループ展を開催したところから命名されました。

1919年にアカデミー・ジュリアンへ留学。1932年、両親の生まれ故郷であったアラヤルヴィにヴィラ・ネリマルッカというスタジオを建設し、オストロボスニア芸術家協会を創立しました。彼は肖像画や静物画、教会の祭壇画などを描きましたが、なによりオストロボスニアの風景画でよく知られています。

また理想主義者であった彼は、芸術はすべての人に平等に与えられるものだと信じていたため、アラヤルヴィに美術学校と美術館を設立したいと考えていました。1964年にネリマルッカ自身が設立した美術館は現在、地域の美術館としてアラヤルヴィ市によって運営されています。

参考:Sininen Laulu