天使とか悪魔とか 〜 マグヌス・エンケル、ヒューゴ・シンベリ

意外と怖がりなので、閉館後は展示中の絵の人物が動き出すんじゃないかと、ときどき心配になったりします。疑心暗鬼ってやつですね。そんな時は歌をうたったりするんですが、灯台の中は声がよく響くものでして。ええ、近所で噂になっている天使の歌声、笑 ──

The Wounded Angel, 1903
The Wounded Angel, 1903

今回は、以前紹介したアクセリ・ガッレン=カッレラやエレン・テスレフ以外の象徴主義の画家を見ていくことにします。芸術とは目に見える現実の姿を単に模倣するのではなく、現実の背後にある真理を描写することをめざしたのが、象徴主義といわれています。

Beda Maria Stjernschantz, 1867-1910

ポルヴォー生まれのベダ・シャーンシャンツは、フィンランドで21世紀になってようやく評価された象徴主義の画家です。1885年にヘルシンキ絵画学校へ入学しますが、その翌年父親が亡くなってしまい、自費で学校へ通いました。1889年からはグンナル・ベルントソンに師事しました。

1891年、エレン・テスレフと共にパリへ渡り、アカデミー・コラロッシで学びます。1年足らずでフィンランドに戻りますが、その後数年間、経済的な理由から海外へ行くことはできませんでした。パリで彼女はマグヌス・エンケルから象徴主義について教えてもらい、特にピエール・ピュヴィ・ド・シャヴァンヌの作品に感銘を受けたそうです。

Everywhere a Voice Invites Us, 1895
Everywhere a Voice Invites Us, 1895

上掲の作品『Kaikkialla ääni kaikuu』(直訳:どこでも木霊が聞こえる)が美術評論家から高く評価されたことで奨学金を得て、1897年からイタリアへ行くことができました。しかしその後も経済状況は芳しくなく、42歳で自らの生涯を閉じました。

Knut Magnus Enckell, 1870-1925

マグヌス・エンケルは、ヘルシンキから東へ約145kmのハミナの町で、神父の子として生まれました。1889年、19歳の時にヘルシンキ絵画学校で学び始めますが、中退してグンナル・ベルントソンに個人的に師事しました。

1891年にアカデミー・ジュリアンへ留学すると、象徴主義に惹かれ、ピエール・ピュヴィ・ド・シャヴァンヌの影響を受けます。その後、ミラノやシエナ、ヴェネツィアなどイタリアを旅し、フィレンツェではフレスコ画やテンペラ画の技法を学びました。

The Awakening, 1894
The Awakening, 1894

黒やグレー、茶といった落ち着いた色にこだわっていましたが、イタリアでの数年間で、より明るくカラフルな絵へと変化していきました。1909年には、アルフレッド・ウィリアム・フィンチやエレン・テスレフらと共に Septemグループを結成し、1912年にはグループ展を開催しました。

また彼は、1915年から1918年まで、フィンランド芸術協会の会長を務め、1922年にはフィンランド美術アカデミーの会員に選ばれています。2020年10月には、アテネウムで回顧展が開かれました。

Hugo Gerhard Simberg, 1873-1917

ヒューゴ・シンベリもまたハミナ生まれ。その町でアマチュア芸術家の叔母が開いていた私立学校で学び、芸術家になることを夢見ていました。その後、8歳でヴィープリに引越します。1891年にヴィープリ芸術友の会のドローイングスクール、1893年からはヘルシンキ絵画学校へ入学し、ヘレン・シェルフベックやエリン・ダニエルソン=ガンボージなどに師事しました。

しかしアテネウムの教育が自分のスタイルに合わないと感じたシンベリは、1985年、フィンランド象徴主義の代表であるアクセリ・ガッレン=カッレラに弟子入りを志願し、彼の住むルオヴェシへと向かいました。聖書やダンテの詩、アンデルセンの物語などから影響を受け、夢と寓話が組み合わさった彼独特の世界観は、当初あまり評価されていませんでしたが、ガッレン=カッレラは、彼自身のスタイルを守り続けるようにアドバイスしたそうです。

彼は、生と死を主なテーマとして、不気味なものや超自然的なものに焦点を当てました。『傷ついた天使』では、人生の終わりを自嘲的に表現しています。子どもたちの悪ふざけのような、でもそこに真実があるような。2006年のアテネウム美術館の投票では最も愛されている作品に選ばれました。

パリやイタリアなどで学びながら制作した作品が、フィンランド芸術協会の展覧会で好評を得て、協会員となり、ヴィープリのドローイングスクールで教師として働くようになりました。1907年にはヘルシンキ絵画学校の教鞭もとっています。また1904年には、友人マグネス・エンケルと共同で、タンペレの聖ヨハネ教会(タンペレ大聖堂)の内装を手がけます。これは彼のキャリアにとって最大の挑戦となりました。

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