ある場所の記憶

注文していたコーヒーカップがistutから届いた。
istutはフィンランドのヴィンテージなどを扱う荻窪のカフェ。仲の良いご夫婦が営んでいらっしゃる。2年ほど前に初めてお店にうかがったときは、残念ながら満席だった。若い女性だけでなく地元の人たちにも愛されているお店なのだなとおもった。
大きな窓のカウンターでコーヒーを片手に外を眺めている人。一番奥の席で本を読んでいる人。テーブルを囲んで談笑している人。厨房に並んでコーヒーやデザートの準備をしているおふたり。入り口の開け放たれた木の扉から見えたその光景を思い出すだけで気持ちがあたたかくなるような、そんな場所。
ところで、場所というものはいつできるのだろう。それとも最初からあるものなのだろうか。だとしても人の集まる場所というものはほとんどが誰かによって創られたものなのではないだろうか。ベンチを置いたり、囲いを作ったり、屋根をつけたり。そしてそこには必ず誰かがいる。
その誰かさえいれば、そこは場所になる。きっとそういうものだ。
istutのお店にはおふたりがフィンランドで買い付けてきたいろいろなヴィンテージの食器が並んでいる。Arabia, Iittala, Nuutajarvi…… まるでちょっとした博物館みたいに。価値のわからない自分にはもったいなくて、なかなか手が出せずにいた。
けれど、この大変な毎日の暮らしの中でistutにあるものをひとつ手に入れたいと数日前にふとおもった。
届いた箱を開けて包装を解き、コーヒーカップを手に取ると、ああ、ヴィンテージってこういうことかと初めてわかったような気がした。持ち手やカップの縁がすこし色褪せているのを見て、以前使われていた場所のことをおもった。きっとフィンランドのどこか。カップの底の半分消えかけたロゴマークを見て、とても大事に使っていた誰かのことをおもった。
ここには場所の記憶がある。そして誰かの記憶も。そんなことをおもいながら今日もコーヒーを飲む。