旅する先生 〜 マリア・ヴィーク

いらっしゃいませ、マイッカ灯台美術館へようこそ。本日はマリア・ヴィークの絵をひとつ展示しています。はい、たった1枚だけです。ご存知のとおり当美術館は本来灯台ですので、スペースが限られているのです。それにたった1枚だけだったなら、今夜眠りに落ちるとき、今日観た絵のことを思い出せるじゃありませんか ──

Portrait of the Artist's sister Miss Hilda Wiik, 1880

今回のマイッカ灯台美術館は、前回紹介した【モダン・ウーマン】展でも最初に展示されていたマリア・ヴィークについてお届けします。

Maria Katarina Wiik, 1853〜1928

画家マリア・ヴィークは、フィンランドの女性アーティストのパイオニアの一人。1853年生まれで、ヘルシンキのカイヴォプイストで育ちました。

Kaivopuistoは直訳すると「井戸公園」。過去に泉でも湧いていたのでしょうか。現在も大きな公園があり、市民の憩いの場になっています。スウェーデン語ではBrunnsparkenとも呼ばれ、地図で調べた時、同じ名でヨーテボリの中央広場が出てきたので混乱しました。

彼女はフィンランドで最初の公立女子校であるSvenska fruntimmersskolan(スウェーデン女子学校)へ入学。1873年にアドルフ・フォン・ベッカーの私塾でデッサンを学びます。

スウェーデン女子学校

Adolf von Becker, 1831-1909

早くも脱線しますが、このアドルフさんが曲者です。彼は1848年に設立されたばかりのヘルシンキ素描学校で学び、一度は法学の世界へ。しかしトゥルクの美術教師に勧められ、デンマーク王立芸術アカデミーへ留学しました。その後デュッセルドルフ美術アカデミー、パリのエコール・デ・ボザール、奨学金を得てスペインのマドリードでオールドマスターの複製、そしてイタリアへと、ヨーロッパ中を巡りながら、絵画を学びました。

オールドマスターとは、18世紀以前に活動していたヨーロッパの優れた画家、または、その作品を示す美術用語、のこと。さしずめアドルフさんは new master = uusi maikka = 新しい先生といった感じでしょうか?

1868年にフィンランドへ戻ると、故マグヌス・フォン・ライトの後任としてヘルシンキ素描学校に赴任。彼が1872年に開いた私塾では、マリア・ヴィークのほか、今後紹介することになるヘレン・シャルフベック 、エリン・ダニエルソン=ガンボージ、アクセリ・ガッレン=カッレラなど、多くの芸術家たちを輩出しました。

I Love Paris

さて、マリア・ヴィークの紹介に戻ります。1874年からヘルシンキ素描学校で学んだ彼女は、1875年になるとパリへ渡り、当時女性を受け入れていた数少ない私立の美術学校であるアカデミー・ジュリアンに入学、トニー・ロベール=フルーリーに師事しました。

1880年にはヘルシンキ素描学校の代用教員として過ごし、翌年パリ・サロンに出品した妹(姉?)ヒルダ・ヴィークの肖像画で高評価を得ます。その肖像画はのちにフィンランドの切手にもなりました。

彼女の友人の一人が、ヘレン・シェルフベック。スタジオを共有したり、作品制作のためブルターニュへ旅行するなどして友好を深めました。1889年にはシェルフベックとともに再びパリに戻り、ピュヴィ・ド・シャヴァンヌの指導のもと、作品制作を行います。また当時アーティストコロニーとして芸術家たちが集まってきていたイギリスのセント・アイヴス、さらにはサンクトペテルブルクへも一緒に旅をしたそうです。

Out into the World
Out into the World

彼女の作品は、比較的サイズのちいさな肖像画や静物画が多く、『Out into the World』という作品は、1900年のパリ万国博覧会で銅メダルを獲得しました。個人的に好きなのは【モダン・ウーマン】展でも出品されていた『ボートをこぐ女性』(1892) 。力強く櫂を操る女性の笑顔の瞬間をとらえた古いポートレイトような優しい絵です。

絵画はどうして存在するのでしょうか、なぜ惹きつけられるのでしょうか。それはただ絵をみているだけでいつしか旅へと誘われるからなのかもしれません。見たことのない風景、会ったことのない人、もう存在しない暮らしのもとへと。

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