詩人に会いに、 または詩に出会うこと

灯台守。それは職業でしょうか?「しごと」であることは間違いないと思いますが、たとえば名刺に書いて納得してもらえるのか、というと疑問があります。そもそもどうしたら灯台守になることができるのか、彼自身もわかっていないようです。
あるとき、こんなことを話し合ったことがありました。自己紹介するときにどんな肩書きだったら素敵だとおもう? そこであがったのが「哲学者」と「詩人」。彼は「詩人」という響きが気に入りました。もちろん詩なんてつくったことはありませんでしたが、誰もがある意味「詩人」であると彼は思っているようです。そして自身を「詩人」と称することのできる強さに憧れていました。
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天気の良い週末、灯台守は、詩人に会いに行きました。多摩美術大学のアートテークギャラリーで開催されている「平出隆 Air Language program:最終講義=展」です。
彼が、その詩人を初めて知ったのは『葉書でドナルド・エヴァンスに』という一冊の本でした。数年前、多摩美でミュージシャンの伊藤ゴローさんとおふたりで詩と音楽の講義をされたときに聴講する機会がありました。そこで装幀家でもあることを、さらには編集者として澁澤龍彦などを担当されていたことを知り、彼自身が長い間興味を持っていた人物たちをつなぐ、キーパーソンとして認識するようになりました。
つい先日も偶然にドナルド・エヴァンスの展示を見る機会がありました。
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ところで、詩とはいったいなんでしょうか? 言葉や声にかたちがないように、詩にもかたちはないと彼は考えています。もちろん詩集などにまとめられ、手にしたり、目にしたりすることはできます。ですが、詩が存在する場所とは、その意味(必ずしも正解というわけではない)を理解した「瞬間」にあるのだと彼は考えています。
会場では、詩人が数台のプリンターを操作していました。部屋の中央にプリンターが7台。詩人の紡いだ言葉がゆっくりとすこしずつ紙に印刷されてゆきます。詩人がたったひとりで手紙のかたちをした本を作っているところです。ジジっというプリンターの微かな作動音がまるで詩の声のようです。
その先の部屋では、プロジェクターによるイメージが投影され、心地よい詩人の声が聞こえてきます。そこで彼は意味を考えることをやめました。それらのイメージや声を媒介にして、彼自身の中に生まれてくる何かに意識を傾けるように。
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帰り道、自転車を漕ぎながら多摩川にかかる橋を渡ります。頭の中が詩のことでいっぱいになっていた彼は、川の流れの整備された土手にコサギが佇んでいるのを見ました。詩というものが流れているとしたら、どちらの流れにあるのだろう? 詩はいったいどこにあるのだろう。