道草とサードプレイス

話さなくてもいられる場所 ── たきび
明治大学の公開講座【サードプレイスをつくろう〜人生を豊かにする磁場としての「アート(手しごと、技術、芸術)」】で、「あなたならどのようなサードプレイスをつくりたい/参加したいですか?」という質問アンケートにこう書いた。
サードプレイスとはなにか? 司会の山本洋平さんが、レイ・オルデンバーグ『サードプレイス』(みすず書房)から引用して、こう説明する。「サードプレイスは中立の領域に存在し、訪れる客たちの差別をなくして社会的平等にする役目を果たす」「会話がおもな活動」「遊び心に満ちた雰囲気を特徴とする」「精神的な支えを与える」。
以前『サードプレイス』を読んだときと同様、今回も気になったのが「会話がおもな活動」というところ。会話が苦手なひとは、いったいどうすればいいのか。
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講師は、管啓次郎さんと鞍田崇さん。それぞれ経験談をまじえながら、サードプレイスについて語る。
たとえば、スターバックスはサードプレイスか否か。2003年に取材でシアトルのスターバックス本社を訪れたことがあるという管さん。オフィスはとても開放的、カフェのような雰囲気で、もともとはサードプレイス的な場所になることを構想していたそうだ。一方で現在のスターバックスをみたときに、制度化(マニュアル化)されるとサードプレイスではなくなってしまうのではないか、と鞍田さん。
また学生の頃に喫茶店で、管さんは美術批評の本(中原佑介『見ることの神話』)、鞍田さんはジャズのレコード(マイルス・デイヴィス『Cookin'』)を貸してもらったという。モノを「貸す」という文化、商売ではない(経済が絡んでいない)部分での歓待と贈与の気持ち、そうした、もっとさりげないものが街にはかつてあった。街から消えていった路地や空き地は人間らしさや自然な部分が育まれる場所だったのではないか、と。
そして管さんは、雑草の大切さを問いかける。雑草ひとつひとつが美しく、ほんの少しの隙間があるだけで生えてくる。それらは生命力を体現しており、その存在が人間を生きやすくしてくれている。写真家の石川竜一を紹介し、彼の撮る雑草の写真に心が洗われるという。そのとき管さんと初めて会ったときに聞いた話をおもいだしていた。きっと雑草も「詩」だ。(【講評】八幡で何を見たか|管啓次郎)
サルトルは『弁証法的理性批判』で集団(意識)は「グループ」であるべきと説く。それに対し、ジャン・ウリは「コレクティフ」を選択し、ラ・ボルト病院で実践した。鞍田さんはこの「コレクティフ」を「たまたま」と言い換え、偶発性やゆるやかさに価値をみる。たまたまではじまったものを継続すること。いまもつづけられているローカルスタンダードの講義は、ものづくりのひとたちを中心にまだまだ語るべき人たちがいて、そうしたひとたちが語れる場所をつくるためにはじめたという。それはサードプレイスといえるかもしれない、と。(【論考】鞍田崇|生きる意味の応答)
ここで管さんは、「単位」「学科」「教室」といった大学のシステム(商品)に異議をとなえる。いまの学生は評価されることになれすぎていて、自然発生的なつながりが生まれない。教育とは教室とは別の場所で行われるものではないか。すべての知識は有機的につながっており、学科にしばられるようなものではない。ニューメキシコ大学のルドルフォ・アナーヤ(代表作『トルトゥーガ』)によるチカーノ文学の講義を受講したとき、文学への考えが大きく変わったという。先住民の集会所のような円形の教室で、誰もが自分たちの問題、私たちの声として白熱した議論が交わされていた。そうした物理的な空間も考えるべきではないか、と。
京都の街を歩きながら、夢中になって友人と話をしていたことを鞍田さんが回想すると、管さんがとつぜん「ただついていく散歩」っていいね、という。街で見かけた見知らぬひとのあとについていく散歩。なにも得るものなんてなくていい。名まえは聞かない。犬がいたら最高、と。そこには時間や空間のくぎりがなく、普段わいてこない考えが浮かぶかもしれない。歩くことの大切さ。(管啓次郎「詩と歩くこと」)
さらに管さんが一冊の本の重要性を語る。近年、下北沢B&Bをはじめ独立系書店のネットワークが生まれ、書店文化の変化がみられる。以前のように本ができあがったところで終わらず、それらをイベントなどを通して届けるように、出版活動という概念が延長している。何万部売れたとしても意味はなく、300部で充分。この本は自分にしか読めない、わからないと感じられる本の方がよほど価値がある。その評価は100年後にわかる、と。
最後に、鞍田さんからデンマークの森の幼稚園の話。森に入った子どもを連れ戻しに行こうとしたところ、木と会話しているところだから邪魔してはいけないといわれたこと。そうした体験から子どもたちは学んでいる。そして、いまの学生たちが大きな木に触れた経験がないことに驚いたと管さん。レイチェル・カーソンの『センス・オブ・ワンダー』を引用して、身体と言語は渾然一体のものであり、自然の経験や具体性がなければならない。現物に触れないとなにもはじまらない、という。
サードプレイスからの連想で、次々と話題がうつりかわっていく。まさしく道草をしているように。
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話さなくてもいられる場所。その前には(話しても)という言葉が隠れている。
話すことはもちろん大切。サードプレイスは話してしまう場所で、ひとことの声かけが必要で、語りかけるからこそ動き出す、と鞍田さんはいう。話すことによってしかわからない。どんなきっかけでなにが生まれるかはコントロールできないのだから、と。その通りだとおもう。けれど、そこに届かないことや、そこからこぼれ落ちるものがある。鞍田さんの考える「弱さ」よりも、もっと弱いものが存在する。自分のおもうサードプレイスは、そのひとが話してくれるのをいつでもいつまでも待てる場所。
話すことの目的は、伝えることだとおもう。言葉を通さなくても伝わるものがあると信じている。そして、おなじ場所にいること、おなじ時間を共有することの意味。道草に目的がないように、たきびにも目的はない。「みんなでたきびを囲んで、なにも話さずに去っていくのもいいね」と管さんが言ってくれたことが、なによりうれしかった。
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サードプレイス(第3の場)をつくろう
人生を豊かにする磁場としての「アート(手しごと、技術、芸術)」
2025年5月10日 明治大学駿河台キャンパス グローバルフロント/ホール
司会:山本洋平/講師:管啓次郎、鞍田崇