最後の会話【街のあかり】

最後にとりあげる作品は2006年に公開された【街のあかり】。この連載が終わるまでにどこかで書こうとおもっていたことがある。それは「ロシア」というキーワード。いちばん近い外国はきっと、自分の暮らす国をみつめる鏡になる。
まず、いくつもの作品でその楽曲がつかわれていたチャイコフスキーは、監督のお気に入りなはず。そして、世界初の人工衛星からとった「スプートニク」という制作会社名(もちろんライカも!)。今回の【街のあかり】の冒頭でもロシア人たちの会話の中に、ゴーリキー、トルストイ、チェーホフ、プーシキンといった作家たちのなまえが聞こえてくる。
アキ・カウリスマキが、そうしたロシアの作家や詩人たちのたくましさや社会への視線にシンパシーを感じていたことは間違いないとおもう。カウリスマキ映画の特徴のひとつであるオフビートな感覚は、フィンランド的だとばかり考えていたけれど、もしかするとロシア文学や芸術の影響だといえるかもしれない(もちろん作品を「国」でくくることなどできはしないけれど)。
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さて、そんなロシア人たちの会話に加わりたそうにしていたのが、今回の主人公コイスティネン(ヤンネ・ヒューティアイネン)。警備員として働く彼は、ほとんどすべての同僚たちにうとまれ、どこにも居場所がない。休日もいつもひとり。その理由はわかるようでよくわからない。ある日そこへ、女(マリア・ヤルヴェンへルミ)がやってくる、彼を犯罪ゲームに巻き込むために。
この映画で描かれているのは、孤独だ。正義も良心もみあたらず、コイスティネンはずっと傷ついている。けれど言い訳も抗弁もしない。何度裏切られてもひとを信じる。なぜなら孤独であることの苦しみをだれよりも知っている人間だから。
にもかかわらず、彼はその孤独を選ばずにいられない。これを観てもなにも感じないのか? と、カウリスマキ監督はつきつける。とはいえ、コイスティネンに手を差しのべる存在がどこにもいないわけではない。子どもと犬とソーセージ屋の女性。でも彼はまだその存在に気づいていない。
これまでの総集編のような趣をもつ【街のあかり】。もしかするとカウリスマキ監督は、この映画を最後の作品と考えていたのかもしれない(いつだってこれが最後だと覚悟を決めて撮影してきたにちがいない)。最後の会話はまるで、アキ・カウリスマキがそんなの野暮だろうと、ずっと口にすることのなかったメッセージのように響く。
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街のあかり|Laitakaupungin valot(2006)
監督・脚本・編集:アキ・カウリスマキ
撮影:ティモ・サルミネン
出演:ヤンネ・ヒューティアイネン、マリア・ヤルヴェンヘルミ、マリア・ヘイスカネン、イルッカ・コイヴラ、ほか
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作品一覧(公開順)
罪と罰(1983)
カラマリ・ユニオン(1985)
パラダイスの夕暮れ(1986)
ハムレット・ゴーズ・ビジネス(1987)
真夜中の虹(1988)
レニングラード・カウボーイズ・ゴー・アメリカ(1989)
マッチ工場の少女(1990)
コントラクト・キラー(1990)
ラヴィ・ド・ボエーム(1992)
レニングラード・カウボーイズ、モーゼに会う(1994)
愛しのタチアナa(1994)
浮き雲(1996)
白い花びら(1999)
過去のない男(2002)
街のあかり(2006)
BOXセット未収録のこれ以降の作品は、こちらで公開する予定です。
ル・アーヴルの靴みがき(2011)
希望のかなた(2017)
枯れ葉 (2023)